たけかな@no road around but behind

そこらへんにいる人10を網で捕まえてきて、10でさっくり割ったような典型的に普通な大学生の微妙な日常をてきとーに書いていきます。たぶん結構大部分がN/functionだと思うのですが、軽く横目で流し読みしてってくださいw(意味わからない)
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日本人の法嫌い
今日の比較法文化論の授業は面白かった。

従来から、訴訟嫌い、法嫌いは日本人の国民性とされてきた。
それは、根底にある権利意識が低いからであると。

更にその原因は、第二次世界大戦で負けて上から権利を与えられたのであって権利を勝ち取ったのではないからだ、いやいや江戸時代の落語にすら大岡裁きに持ち込むのは強欲なやつだけというような価値観が現れているから、これはもっと日本人の民族に根ざす問題なのだ・・・云々。

「日本人の法意識」のなかで川島武宜教授は日本人の法嫌い、少なくとも積極的に訴訟をして権利を主張することを好まない日本の文化についてはじめて言及した。同じ頃、海外で活躍していた野田良之教授は「日本法入門」(日本語訳はない)で同様のことを主張していた。

なるほど、確かに、「裁判沙汰」という言葉に表れているように、日本人は訴訟をあまり好まない。「刃傷沙汰」と同じような−イメージであるということだ。
アメリカで熱いコーヒーを店員に渡され自分でひざにこぼしてやけどを負ったことにつきファーストフード店に損害賠償が命じられたり、猫を電子レンジで乾かして爆発して猫が死んだ件で、電子レンジ製造メーカーが「猫を乾かしてはいけない」と取扱説明書に書かなかったとして慰謝料請求が命じられるなど、全く日本では考えられない。
さらに、隣人訴訟で有名なように、人が訴訟に持ち込むことに対してすら嫌悪感を示す。

だから、文化的に好まないと言われたら、確かにと納得できる部分もある。

しかし、それはそう簡単なことではない。
法律を勉強していない人でも知っているように、日本では訴訟コストが他の国に比べて著しく高い。
だから、訴訟をしたくてもできないという現実がある。むしろ、それは制度上の問題であるというのだ。
これがヘンリーの「費用説」である。

これも確かに、という感じである。
しかし、確かに、これで日本人が訴訟をしたくないという感覚は説明できるが、訴訟をする人に対して日本人が感じる否定的な印象は説明できない。

これらの説は両方とも、日本人の権利主張に対する意識の低さを前提としている。

それに異を唱えたのがラムザイヤーである。
彼は「法と経済学」のなかで主張する。

紛争当事者のどちらにとっても、金と時間をかけて訴訟を最後までやり、判決を得るためのコストは、示談や和解といった妥協をするためのコストより、通常はかなり高い。そのような場合に、判決が命じられるであろう金額を両当事者が同じように予想し、しかも双方とも富を極大化しようと合理的に行動するならば、訴訟は選択されず、妥協を選択するはずである。
そして、そのためには、訴訟になった場合の裁判所の判断を予測しなければならない。
もしも正確に予想できるならば、カネと時間をかけて訴訟をする必要がなくなるわけである。
CP sol=Plan solでCPのsupeがtime and costとなるわけだ。

これを前提に、例えば交通事故訴訟を取ってみると、日本では保険制度の発達と、交通事故訴訟の判例のかなり詳細な類型化を背景に、被告側の保険会社と原告側の保険会社によって、過去の判例に従った運用がなされているという実態がある。
日本ではかなり正確に、裁判になった場合を予測できるということである。

つまり、裁判の結果をかなり正確に予測できるからこそ、わざわざ裁判をしないだけだ、というのがラムザイヤーの主張である。

この説はかなり説得的であるように思う。
裁判の結果を正確に予測できるならばコストを考え日本人が訴訟を控えるのもわかる。さらに、訴訟をする人というのは、先例に従わずわざわざ訴訟を提起する変わり者と認識されるため、否定的な感情を感じるというわけである。

この説を前提にするならば、日本人はむしろ法嫌いどころか、判例の類型化という形で法律を日常生活に浸透させていることになり、むしろかなり法意識が浸透している国民ということになるだろう。少なくとも交通事故訴訟においては。

これは、アメリカとの比較からも支持される。

日本ではなるべく職業裁判官が一般的抽象的規範を立ててから個別具体的な事件について検討する上、具体的な損害賠償の基準・逸失利益の基準を公表しているが、アメリカでは陪審員が個別具体的に(時には感情的に)検討するから全く類型化できない上、損害賠償の客観的基準も存在しないため、全く予想ができない。従って実際出たとこ勝負、訴訟によるしかないというわけなのである。
実際アメリカ人が「できれば訴訟によるべきでなく調停をすべき」と考える傾向は日本人の場合とほぼ同様という結果が出ている。

アメリカ人は訴訟好き、日本人は訴訟嫌いという凝り固まった考え方は、もう過去のものとなりつつあるということである。

逆に、訴訟を行わなくても訴訟を行ったと同じ結果を得られることが国民の間で無意識に浸透しているからこそ、訴訟を行う人・訴訟を行うこと自体に対して否定的な意識が有り、それが訴訟結果を予測できない類型の事件(先例がない事件など、会社に対する知的財産権の主張等)に対してまでも、その否定的な意識が波及していることに問題があるといえる。
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この記事に対するコメント

かな、この授業とってたの??

私もとってるよ!!
明日の授業のとき探してみるわ☆
ゆかり★ | 2006/12/06 11:22 PM
そのせつは、どもー(笑)

お昼食べながら久しぶりにいっぱいしゃべれて楽しかったよー★
又あさってねw
たけかな | 2006/12/12 11:38 PM
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