たけかな@no road around but behind

そこらへんにいる人10を網で捕まえてきて、10でさっくり割ったような典型的に普通な大学生の微妙な日常をてきとーに書いていきます。たぶん結構大部分がN/functionだと思うのですが、軽く横目で流し読みしてってくださいw(意味わからない)
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勇気
予備校の帰り道。
新宿ねぎしによって、ご飯を食べた。

あそこは、ご飯のおかわり自由。

私はひそかにいつか絶対おかわりしてみたいと思っていた。
小さな私の夢だった。


なぜなら、ねぎしはとろろがついてくるんだけど、肉とご飯を食べていると最後にとろろの分のご飯が残らないから。

しかし、、、

女の人でお替りしている人は見たことがない。
なのでいつもいいたいのにいえない。
あと少しの勇気があったら、と後悔して残ったとろろを眺めたことのなんと多いいことか。

そして迎えた昨日。
私の隣にすわっていたおばさんとおねえさんの間くらいの人が、おかわりをした。

よし!キタキターーと思って、はっきり言っておかわりするほどおなかはすいていなかったのに、ここをのがしたら一生おかわりできないかも、と思い
店員にお替りって言うことを決意。

しかし、遠くにいる店員さんを大声で呼ぶのは気が引ける、よって、私の横を通る店員さんを捕まえようと決める。

捕獲スイッチon!

・・・

全然こないorz

と半ば諦めかけたとき、店員の兄さんが私の横を通り抜けた、

「スミマセン、あの・・・」

…無視かよ!!

声が聞こえなかったらしい。
しかし私の隣に座っているおじさんには聞こえてて、恥ずかしくなって「あらら」って言い訳するように言ってみたり。むしろこっちのほうがハズいが。

もうやだ、かえりたい!
て思った瞬間、一部始終を見ていたらしい店員のお姉さんがやってきて、「お客様、何かご用命でしょうか」

やっとおかわりできましたとさ。
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技術を越える何か
全然好きじゃないはずのサッカー。
オフサイドもこの前知ったし。

フランスVSスペイン。

やばい。こんな時間まで見ちゃった。ジダンすげー。すげー。
ロスタイムのディフェンスと、最後まで前へ前へボールを運ぶ姿勢がすごい。かっこよすぎ。

これは、2点入れた後半20分の時点で、ボールをキープすることに心血を注いで観客からブーイングをもらったブラジルに勝つかもよ、と素人ながら興奮。
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柿ピー
のピーナッツ許せない
雑記 | permalink | comments(12) | trackbacks(0)
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お茶と牛乳
牛乳の消費量がここ数年かなりの減少傾向にあるらしい。
少子化や、清涼飲料水の普及が主な原因らしいが、成長期には大切なカルシウム不足が懸念される。

そこで近々政府は法律を改正するという話を目にした。
何の法律かというと、



牛乳の容器を指定する法の改正らしい。

というのも現行法上は、牛乳は紙パックかビン以外で販売してはいけないというのだ。これは私も驚き。
そういえば確かに、缶牛乳とか、ペットボトル入りの牛乳なんかは見ない。

専門家は、この牛乳の容器を指定する法はまだペットボトルなどが世に出る前に作られたものであり、よって牛乳をパックかビンに限定する趣旨ではないため改正しても問題ないとしている。

この改正で、ペットボトル入りの牛乳が販売されるようになれば、牛乳消費量の減少傾向に歯止めをかけることになるかもしれないと生産者側は期待している。

というのも、牛乳の消費量とまるで反比例するかのように爆発的に売れている飲料水があるからだ。
それは「お茶」
ペットボトルにお茶が入れられてコンビニに並ぶようになってから、お茶の消費量は爆発的に増えたらしい。

というわけでこれと同じ現象を牛乳に期待しようというのが本法の改正の狙いであるらしい。

全く、安易だ。

私が思うに、ペットボトル入りの牛乳がペットボトル入りのお茶と同様に売れるようになるというのは全く持って机上の空論である。
なぜなら、なぜこんなにもペットボトルのお茶が売れるかというと、持ち運びができるからであろう。これは今までの紙パックや缶にはなかった機能で、一度あけてしまってもかばんの中に放り込めるというのが一番の利点であるわけだ。
しかし、この前提には、それだけ中身が持ちはこびにたえる、もっというと中身が長時間外に出しておいてもなお食しえるという中身の特性があるわけだ。
お茶はその特性を見事に備えた。だからペットボトルに収まって成功した商品なのである。

ところで、牛乳はどうだろうか。朝もって行った牛乳が夕方ペットボトルに残っているからと言ってのむきになるか。答えは否。
さらに牛乳は口の周りにつけば白くなるし、なにより、さっぱりしない。

それに一番いけないのは、牛乳はなんと言っても何をさておき、非常に不味いということ。
ほんとまずい。大嫌い。

というわけで、牛乳のこの味をどうにかしない限り、牛乳に明日はない。さらば牛乳。
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真似
私すごい許せないのが、
なんか売れている本とかのまね本がでること。

てか許せなくもないけど、なんで恥ずかしくないのか。

昔で言えば「話を聞かない男地図の読めない女」のまがい本がいっぱい発売されていたし、さいきんはダ・ヴィンチ・コードのまがい本が本屋の店頭に並んでいるのがびみょ。

別に関係ないけど。明らかにまがい本で恥ずかしくないのか。
てかまあなんとなく嫌なだけ。
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妙に食べたくなるもの
・ハンバーグの横にあるベイクドポテト

ハンバーグを食べ終わる頃にはデミグラスソースがしみているのがなんとも言えず良い。

・豚のしょうが焼きのなかのたまねぎ

以前豚を入れないでたまねぎだけに同じ味付けをしたら、全然美味しくなかった。

・缶詰のみかん

ありえない鮮やかな色、人工的な味になぜかはまる。

・パフェのてっぺんについているミントの葉

私はいまだかつてこれを食べる衝動を抑えられたためしがない。まじ美味しい。
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目標の立て方講座
どうも。
最近blog更新が波に乗っているたけかなです。

目標ってどのように立てれば良いのか。受験時代、目標を立てるのに一日かかったりして、結局計画通りに行かず、なにやってるんだろう自分、、、みたいに感じている人も少なくないのではないでしょうか。
私は目標とか計画を立てるのがとても得意です。
そこで私が正しいと思う目標の立て方について。

よく、色々なマニュアルに、目標は手の届きそうなものをって書いてある場合がある。
これに対しては、いやいや最初から低いところを狙っていてもそれ以上は行かないから、目標は壮大に立てておいて、それに届かなくてもそれに近づこうとするからなるべく目標は大きいほうが良いって反論が来る。
これに対して、いや、途中で明らかに目標に届かないってわかったら挫折してそこで諦めてしまう、目標が大きければ大きいほど早めに見切りをつけてしまうため良くない、という再反論があり、
究極的には「自分の性格を見極めて目標を立てましょう」などと、あってもなくても良いような断り書きでお茶を濁している場合がある。こんなのCDプレーヤーに「これは音楽を聴くための機器なのでそれ以外の用法に使用しないでください」って書いてあるのと同じで無意味である。むしろ音楽聞く以外の用法を教えて欲しいくらいだ。

私はこれが、結果に対する目標と、過程に対する目標をごっちゃにした結果生じている混乱だと考えている。
すなわち、受験で言えば、どこどこ大学に受かる!っていうのが結果に対する目標であり、1ヶ月でこの参考書を終わらせるって言うのが過程に対する目標である。

私としては結果に対する目標は大きめに設定しておくべきと主張したい。
まさに「最初から低いところを狙っていてもそれ以上はいかない」からである。

これに対し、過程に対する目標はできそうなものを設定しておくべきである。
あまりに無理な目標を設定してもそれこそさっさと「挫折してそこで諦めてしまい」「早めに見切りをつけてしまう」ため、いわゆる計画倒れを生じやすい。できそうなものを設定しておいて、実際できたら自分を褒めてあげられるし、結構気分が良いものだ。


この場合分けは、結構有用であり、例えば目標を人に宣言すべきかどうかについてもこの場合わけで対処できると考える。

前者の結果に対する目標は別に口に出して人に宣言する必要もないことだと思う。人に対して宣言して自分にとってプレッシャーにしてがんばる!っていうのは正しいのだろうけれど、結果をプレッシャーにするのは正直精神衛生上つらい。
これはそもそも大きめの目標を立てているからという理由だけでなく、結果はいつも不確定要素が介在する危険を内包しているゆえに、それを人に宣言して自分に対しプレッシャーをかけるのは自分を追い詰めることにつながる可能性を禁じえないからである。(口だけのやつじゃないはずのひとが、口だけのやつとみなされる可能性がある)
むしろ人に宣言すべきは、過程に対する目標である。
これは基本的にかないそうなところを設定しておくべきであるから、これは人に対して宣言することによって、自分に対して適度なプレッシャーをかけられるのが一つの理由。またもう一つは、その性質上過程に対する目標はすべて自分次第であるから、人に対して宣言してそれをかなえられるかどうかは自分でコントロールできるし、できなかったら自分はまだまだだと思い反省することにつながり、人間成長にもよいからだ。(できないやつは本当に口だけのやつってことで反省すべし!w)

これが私の目標の立て方理論です。
つまり大会の結果の目標は大きめに、胸に秘めて。何日までにケースを作るとかスピレンを毎日3時間するとかはできそうなところを、パートナーに宣言して。

注意 えにうぇい「自分の性格を見極めて目標を立てましょう」
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言葉バトン
Q1好きな言葉は?

自由

Q2あなたの口癖は?

てかさー、かなり、

Q3あなたにとって最大の褒め言葉は?

ジャンキー 嘘。
なんだろ。
賢いとかwあんまいわれないけど。

Q4普段、出来るだけ使わないようにしている言葉は?

ら抜き言葉。絶対言わない。
まじ来れるじゃない!来られるだよ!!

Q5一度言ってみたいが、何らかの理由でまだ言ったことのない言葉は?


さびしい
って言ったことないな。。。


Q6普段の生活において、思ったことの何%くらいを実際に言葉に出してる?

79%


Q7プロポーズとして、言いたいor言われたい言葉は?

ねえ、俺と結婚しよ
みたいな感じ。

…でも断るけどw

Q8あなたにとって言葉とは?


意思伝達手段。。。つまらない回答だなw
心と心をつなぐ架け橋とか?寒い。。。

スミス君へ回しまーす☆
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言語と思考
よく、言語が先に生まれたのか思考が先に生まれたのか、問題にしている論文を見ることがある。
普通に考えれば、思考→言語なのだろうと思うのだが、言語が生まれることによって思考が分節化されるという考えが今では市民権を得ているようだ。
まあ具体例を挙げると、自由という言葉が海外から輸入されてくるまで、日本に自由という観念がなかった、とか、アメリカが上にをabove、over、onと色々な言葉で表すのに、日本では「上に」という一つの言葉で表されてしまうため、そこにある微妙な違いを考えることができない(思考を文節化できない)などであろうか。

でも、何もないところでいきなり言葉が生まれてそのとき思考が分節化されるという考えにはなんとなく違和感を覚える。
突如として言葉が出現するのが変な気がするのだ。

やはり言葉が生まれるのは思考以前の漠然とした必要性があるのではないかというのが私の勝手な考え。

地域によって、文化によって、なにをどう分節するかが違うのは、そこを分節することに意味があるかどうかなのだろうと思う。

例えば、虹を7色とするか2色とするか、それが文化によって違うのは、文化によって色の数が違うからである。
ロシアでは4色(実は5色って話もあるけど)で日本では7色だったりするのは、ロシアは冬ばっかりで色の識別をする必要がなかったのに対し、日本は四季がありさまざまな自然の色にあふれていたから色の識別の必要性があったからではないかと思うのである。

日本の平安時代の服が色とりどりなのも、四季があるのと関連があるのではないのかな。熱帯地方とか原色の色が多い地域の服は原色系の服が多い気がする。それに対しシベリアとかの服は同系色だし。

最後のほうは完全に勝手な想像ですが。

でも人間はその環境の中で必要なものに対し必要な思考力を備えるために言葉を生み出し思考の分節化をしているというのが、私の結論です。

以上の結論より、私が思ったことを3つほど。

その1

われわれの世代のボキャブラリーが父母世代と比べかなり減っているらしい。3分の2くらいだっけかな。
単純に考えれば、必要的思考能力が3分の2減っていることになる。
又、10〜20代の男女の会話のうち、およそ87パーセントが「マジで」「ヤバイ」のニ単語で成立しているという。

これは、本当にマジでヤバイ感じである。どんどんバカになっていきそう。。。


その2

これはバカみたいに当たり前のことなのだが、アメリカ人は英語で考えているのだなーってこと。
思考が英語なんだなーって。
たまごをみて「あ、たまご!」って思わず「oh! egg」って思うわけですね。
なんかすごい意外な感じ。
想像すると未知の世界。
頭の中で悩んだりするのも全部英語なんだよ?

その3

思考と言葉がリンクするように、感情と言葉もリンクする。
感情に名前がつかなければその感情を類型化して認識することができない。

結局あかちゃんのときには何の言葉も知らないわけで、何か遊んでいたときに「楽しいねー」と母親に言われ、『これが楽しいという感情だ』と理解し、ゲームに負けたとき「くやしいね」と父親に言われ『これがくやしいという感情だ』と理解するのである。
もしかしたら、私が思う「楽しい」という感情と、あなたが思う「楽しい」という感情は微妙にずれているのかもしれない。
つまり、なにかをしてある人は「楽しかった」といい、ある人は「面白かった」といったときに、その二人が感じている感情じたいに齟齬があるのではなく、そういう感情に対してつけた言葉が違う可能性がある――すなわち、ある二人がともにAという感情を感じているが、一方はAという感情に「楽しい」という名前をつけていて、また他方人は同じAという感情に「面白い」と名づけているかもしれない。その結果、ともにAという感情を抱いたにもかかわらず、二人は感情の一致を得られていないと思い込むわけだ。

世界は、こういう類の感情にこういう言葉をあてているだろうという互いの信頼の元に成り立っているのである。
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最初で最後
私には、人になかなか理解されない趣向がある。
それは良いものは最初で最後にしたくなるという感覚である。

例えば、感動した映画、本、漫画、手紙。

感動すればするほど、もう二度と見たくないと思ってしまう。

きっと、二回目には二回目の感動があるだろうってわかっているんだけれど、二回目見たときに一度目の感動が色あせてしまうとしたら、それはもう取り返しがつかないような気がするからである。

だから、私は二度目により深い感動を味わうという経験ができない。
これはもったいないんだけれども、でも一度目の感動をずっと胸に抱いておけるというのは私にとっては大きい。

時間による摩擦で感動的なシーンのみが記憶に残るから。

私はいつも何かを経験するとき、これで最初で最後だという意識を強くもっている。一度一度の経験を大事にするという意味ではよい。その反面、二度目をするのにものすごい決心がいるのは、萎縮してしまう感じでよくないんだけれど。

2度寝は大好きなのにね。
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